◆オタクに対する現在の人びとの態度は『漫画ブリッコ』1983年6月号における中森明夫によるものとほぼ変化していないように思えるが、この見方が正しい場合、オタクは(気持ち悪いといった)外見的特徴によってのみ規定されている。
◇中森明夫および現在の人びとによるオタク規定に見かけ上は(虚構との親和性が大きいといった)趣味的特徴が含まれているが、実際にはそうでない。
◇なぜならば、オタクとセットで語られる虚構(作品)が虚構(作品)全体のうちの一部に恣意的に限定されているためである。
◇虚構との親和性がオタクの特徴づけに利用できるならば、歴史やうわさ等々の、間主観性による産物に浸りきっている者もまたオタクであると言わねばなるまい。
◇したがって、そうした一部の虚構(作品)にコミットメントしていないが、気持ち悪い外見的特徴(それがどのようなものであるかは私には分からないが、おそらく分析哲学者ならばラッセルの典型性概念あるいはヴィトゲンシュタインの家族的類似概念を提示してくるのではないか)を持つとされる、精神障害者(人格障害者を含まない)や奇形児はオタクになる。
◇しかしながら、一般に彼らはオタクとは呼ばれない。
◆したがって次のことが帰結する。オタクを攻撃している者は、オタクが何であるかを把握し得ていない。
○外見的特徴とコミュニケーション能力をセットにする議論に対して(1):「◇したがって、そうした一部の虚構(作品)にコミットメントしていない」の部分を「◇したがって、コミュニケーション能力が標準よりも大きい」という表現に置き換えて読むべし。
○外見的特徴とコミュニケーション能力をセットにする議論に対して(2):<外見的特徴の攻撃→コミュニケーション能力の低下>という可能性を考慮せよ。(因果的関係というよりは、相関関係であろう。いずれにせよ、左記のような結果を誘発しているのである。)
▼「特定の種類の虚構作品に接触している者は総体的外見が気持ち悪い」は、「総体的外見が気持ち悪くない者は特定の種類の虚構作品に接触していない」と言い換えることができる。(気持ち悪いかどうかの判断を最大多数派の間主観に委ねるとしても、1人でも「総体的外見が気持ち悪くなく、かつ特定の種類の虚構作品に接触している者がいれ」ば反証されたことになる。)
<!--最終的論争点は「気持ち悪い」という判断がいかにして正しくなるかということである。(認識論と存在論の両方にかかわる問題)-->
▲「総体的外見が気持ち悪い者は特定の種類の虚構作品に接触する」は、「特定の種類の虚構作品に接触しない者は総体的外見が気持ち悪くない」と言い換えることができる。(気持ち悪いかどうかの判断を最大多数派の間主観に委ねるとしても、1人でも「特定の種類の虚構作品に接触しておらず、かつ総体的外見が気持ち悪い者がいれ」ば反証されたことになる。)
○↑で総体的外見云々の部分をコミュニケーション能力云々に置き換えても同じことが言える。
●「(外見的特徴による)オタクは相手に優れた容姿であることを要求する傾向にあるが、これは自らの容姿を否定することに憤ることと矛盾している」という指摘に対して(1):オタクの外見に対する攻撃は社会的脈絡において「も」なされているのに対し、オタクが相手に優れた容姿を要求するのは性的脈絡においてである。(ここではまた、容姿の判断規準を共有していない可能性があることも指摘しておく。これについては、<2次元の絵>や<フィギュア⊂「2次元的」物体>を選好する点を想起せよ。)
●「(外見的特徴による)オタクは相手に優れた容姿であることを要求する傾向にあるが、これは自らの容姿を否定することに憤ることと矛盾している」という指摘に対して(2):オタクによる性的脈絡における容姿判断に付随する否定が弱い否定である(1つ上の記述からも分かるように、オタクの外見に対して攻撃している者もまた、性的脈絡において対象を「選択しない」という弱い否定を行っている)のに対し、オタクの外見に対する攻撃は強い否定である。
●「オタクは<他のオタクを嫌悪する>(同属嫌悪する)傾向にある」という指摘に対して:それは知らなかった。(苦肉の策として、わが懐疑論思想に基づき、非オタクと同様にオタクの大部分もまた論証なしの言明を絶対視すると特徴づけ、したがってオタクの大部分を非オタクに還元することによって、同属嫌悪という傾向性を人一般の傾向性とする方向はどうだろうか……?)
▽残された謎は、「ブルートレインを御自慢のカメラに収めようと線路で轢き殺されそうになる」、「マイコンショップでたむろってる」、「オーディオにかけちゃちょっとうるさい」という3つの例(いずれも中森明夫によるものである。なお、後2者を同種と見なし、2つの例としてもよい。)を扱い得ていないことである。これらはいずれも「虚構との親和性」で括れそうにない。「1つまたは特定少数の対象への過度の執着」という項で括ったとしても、失敗に終わるであろう。その特徴から想起される、自動二輪車および自動車に特別の愛着を持っている者や成功している実務家、さらには起業家などの者を一般にオタクと呼ぶことはないのであるからして。 |
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