▽現実本位
◇批判:虚構作品は現実的でない。
◆応答:
【カテゴリー1】 一般的
→虚構作品は現実(という虚構)以外の虚構を記述したものであるため、ただ現実のみを求めるならば虚構作品を求める必要性はどこにも見当たらない。
【カテゴリー2】 原理的
→両者はそれぞれに独立した自然さがあるため、現実の事態の評価基準に虚構世界の事態を持ち出して虚構世界が自然さを欠如していると言う、あるいは反対に虚構世界の事態の評価基準に現実の事態を持ち出して現実世界は自然さを欠如していると言うのは、端的にトリヴィアルな言明である。(現実世界と虚構世界とでは、成立している理論が異なっているという可能性を無視している。)
→対象を現実的であると感じるかどうかは人によって異なっている可能性があることをまったく無視している。
→(実在論が正しいとして)対象を現実であると主張する者が言う現実が本当に現実であるかのということが疑問として残る。
→↑とも対立する考えとして、現実は相対的であるというものがある。(敷衍すれば、一角獣が存在する世界からみた場合にはこの世界こそが虚構である、あるいはこの世界は一角獣が存在する世界と同程度に虚構的であるということである。)
→「現実的でない」という部分を「ご都合主義である」に変換した場合には、現実世界には観測選択効果が、虚構世界には美的観測選択効果がそれぞれ働いていることから、両者は共通していると反論することができる。
▽虚構本位
◇批判1:虚構作品に理論は不要である。
◆応答1:
→学術的に劣る考え方を採用している虚構作品(たとえば映画では『MATRIX』)を節操なく受け入れるならば、何でもありになるか、何もないということになる。前者については、この世界のみならず、他のあらゆる世界においても「何でもありが成立する」という信念が成立するかという問いを立てることができ、後者については、何もないにもかかわらず、何かを(物)語っているというのは矛盾であると指摘することができる。
◇批判2a:虚構作品においては、理論がなくとも意図が成立する。
◆応答2a:
→その意図は、対象の意図ではなく、メタ意図〔何かを意図しようという意図〕である。背景に理論がない場合、対象の意図は空虚になる。
◇批判2b:現実世界においてすら、どのような理論が背後から現実世界を支えているか判明していない。
◆応答2b:
→背景にある理論体系を示すことができない限り、虚構作品は無意味となる〔成立しない〕とは言っていない。理論が存在しないという状況も可能であるという点が問題なのである。
補 遺:なぜ虚構世界論が必要なのか
この世界における日常的なレベルの諸言明(たとえば、ある行為に対してある法が適用されるために当該行為は罪であるとする言明)がそうであるように、虚構世界についての諸議論もまた彼らが持つ世界了解に基づいており、したがってその世界了解の真偽によって議論に含まれる仮説や理論の成立可否が左右される。これは、類推を用いるならば、基礎工事を行わずして建築物をつくることはできないということである。
より具体的には次のとおりである。たとえば魔法なるものが描かれる場合があるが、このとき一般には魔法の存在が盲目的に前提される。しかしながら、これはこの世界についても言えるが、何かが成立しているという前提で話を進めたとしても、実際にはそれが成立していないという可能性も考えられる。そして、その場合には、自らがいったい何を言っていたのか本人たちでさえ分からないということになるのである。
ここで滑稽なことは、虚構世界論を抜きにした議論をしている人びとは対象が何であるか分かっているつもりになっているだけで、実際には分かっていないということを分かっていない、あるいは何を言っているのか分かっていないということを分かっていないということである。虚構世界論に対する意識は、そのような愚者が陥る状況を打開する原動力となる。われわれにとっては、まず何よりも土台の部分を固めることが重要なのである。
なお、虚構世界論と言っても、蒙昧主義かつ空語主義であるところの相対主義やそれに類する立場からの、副島隆彦の言を借りるならば「わけの分からない気取り」のそれは不要である。それではいかなる虚構世界論が必要なのか。それは論理分析哲学による虚構世界論である。
この種の虚構世界論の聖典こそが『虚構世界の存在論』である。 |
|