「論理ではなく感情が重要」論者、(自らにとって都合のいいときだけ)「人は論理だけで行動しているのではない」論者に対する論駁の要点は以下のとおりである。
【主要】感情による正しさを主張する者は、その感情に対して、さらにはその感情が正しいという考えに対して「それは正しいか?」と問うことができるということに気づいていない、もしくは無視している。
【補助1】ある感情を持っている(と思い込んでいる者)が自らの考えが正しいと主張したとしても、それとは異なる(しかも相容れない)感情を持っている(と思い込んでいる)者が、彼と同じように自らは正しいと主張した場合、両者の理論上の身分は同等となり、原理的な決着はつかない。
↑を戦術的に活用すれば、ある感情を持っている者が自身の正しさを主張するのに対して、それが気に入らないという感情によって反対意見を表明するだけで、両者の理論上の身分を同等にすることができる。
【補助2】「正しいか誤っているかはどうでもいい」と言う者は、「「正しいか誤っているかはどうでもいい」ということが正しい」と暗に主張しているため、結局正しさを問題にしている。
【補助3】「感覚や感情が共有され得る」という信念、「多数派に共有されている感覚や感情こそが正しいのである」という信念、「多数派に共有されている感覚や感情に従わねばならない」という規範(この規範の背後にあると思われる、「機能すると自らが思い込んでいること」が事実としても、価値としても正しいという信念、および「人類は存続せねばならない」などの規範を含む)はすべて独断である。
【補足】「人は論理だけで行動しているのではない」という信念に含意される規範は独断である。
上述のような指摘を行うと出現するのが、動機を探ろうとする者(そして、魔術的な仕方で動機を発見し、嬉々として攻撃を加えてくる者)である。
しかしながら、ある考えや理論にとって、それらを提唱している者の動機こそが重要であるという考えは、「1+1」の答えが「2」であってほしいという動機によって「1+1=2」が成立するという考えを支持することになる。
彼の考えが正しいとするならば、先述した【補助1】という袋小路に迷い込み、抜け出せなくなるだろう。
したがって、動機によって正しいことが誤りになったり、誤りであることが正しいことになるなどということは決してない。(その者の動機が何であれ、正しいことは正しいし、誤りは誤りである。)
私には、実際に「1+1=2」というのが正しいかどうかは分からない。
しかし、もし「1+1=2」が正しいならば、「1+1=2」であることを論証する(しかも公理のような独断を排除して!)ことに成功した者が「1+1=3」という感覚を持っていたとしても(そして「1+1=2」という感覚を持っている者がただの1人もいないとしても)、「1+1=2」は絶対確実に正しいと言える。
動機の囚人となっている者は、感覚や感情の段階と理性の段階を区別せず、俗流心理学を奉ずる、誤った論者である。 |
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