<<Homepage
実践上の矛盾を巡って
  以下に、かつて私が批判していた「実践上の矛盾」を巡る顛末を要約する。なお、私が実践上の矛盾であるとしていた具体例の最新のものについては最下部に補遺として掲載する。


  ◇実践上の矛盾と私が呼ぶものは、行為間の整合性の有無によって判定される、言い換えるならば批判対象が採用している理論を基準として彼の行為を裁定するので、理論とは独立に成立する。
  ◇しかしながら、行為の観察には独断がつきまとう。
  ◇この独断をすべて排除するには、認識論と存在論についての絶対確実に正しい回答が要請される。
  ◆したがって、実際には理論に依存しているということが帰結する。


  ◇また、私は、その過程〔すべての基礎となる認識論と存在論についての結論〕を迂回したうえで、批判対象がどのような行為を行っているかを判断していたのであったが、他方で私が行っていた提唱は、「すべての信念や命題は論証を抜きにして絶対確実に正しくなることはない」1というものであった。
  ◇ということは、独断を批判していたはずの私こそが独断に陥っているということになり、したがって私もまた実践上の矛盾を抱えているのである。
  ◇ここで注意しなければならないのは、私が実践上の矛盾に陥っていると判断できるのはただ私のみであるという点である。
  ◇なぜならば、他者が私のその行為について判断したならば、先ほど私が他者の行為について判断したときと同じできごと、すなわち自らが独断的に前提している理論に基づいて私の行為がいかなるものであるかを決定したうえで私の行為が矛盾であると考えるという矛盾が生じるためである。
  ◆それゆえ、実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることなのであるということが導かれる。


  ○というのが「実践上の矛盾」を巡る議論であったが、上で見たようにこの方法が理論に依存すると言うならば、懐疑論へと繋がっていくことになる。
  ●したがって、下記の注釈1の最後の疑問が生じ、さらには「終わらない独断」(「懐疑論とその限界」で取り扱っている問題)から抜け出せなくなる。
  ○また、「終わらない独断」を言い換えるならば、(私が批判していた「独断の多用」ではなく)「独断という概念の多用」と呼ぶべき誤謬に陥るということになるであろう。
  ●しかしそうであるならば、「実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることなのである」という批判2もまた、言語という公共的なものを使用しておきながら、それを私的な使用法へと改変したうえでの判断となっている点で成功しない議論なのではないか?


  ○なお、先述したとおり、「実践上の矛盾」についての批判は理論ではなく、実践に対して適用されるという考えに支えられていた。
  ○しかし、たとえ「ある信念や命題が絶対確実に誤っている」(理論が誤っている)としても、そのことのみから「その信念や命題を絶対確実に正しいと信じたり、主張したりすることが絶対確実に誤っている」(誤った理論を正しいと信じたり、主張したりすることは誤っている)と結論づけることはできない。
  ○言い換えるならば前者は一階に属しており、後者は二階に属しているために、一階の結論を他のいかなるものも媒介せずに直ちに二階の結論として再利用することはできない。
  ●ここからも、「実践上の矛盾」にまつわる問題が、単に行為間の整合性の問題で完結するものではなく、理論(ここでは一階と二階の対立)の問題になるということが分かる。




  注  釈


1 すべての信念や命題は論証を抜きにして絶対確実に正しくなることはない。
  この部分については、すでに2009年2月22日の「スマイリーキクチ事件要論」でも述べたとおりである。すなわち、どの世界了解が正しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しない。これは次のことから導かれる。Aという立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。しかし、これは(無)矛盾律に反する。したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論証なしには成り立たない。
  しかしながら、この議論からは「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されているのではないか、同一視するのが正しいとしてその論理的根拠は何かといった疑問が生じる。


2 実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得る。
  この批判には次のような前提がある。すなわち、外部から観察した他者の行為(たとえばせきをしていること)に対する自らの認識(ここではその他者がせきをしているという認識)は正しいとか、外部から観察した他者の行為(たとえばせきをしていること)が示していることに対する自らの認識(たとえば彼はかぜをひいているという認識)は正しいとか、そもそもそのような他者が存在しているとかいった仮説は誤っている、さらにはある者がかつて電子掲示板に書いたことを取り上げて批判したとしても、そのようなことが書かれたことがあるという判断、彼がそれを書いたという判断、書かれた文の内容(何を指示しているかなど)はすべて独断である。
  しかしそうすると、言語というものが成立しなくなるため、「実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得る」という(言語によって構成された)命題もまた成立しなくなるのではないか、というのが「しかしそうであるならば、「実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることなのである」という批判もまた、言語という公共的なものを使用しておきながら、それを私的な使用法へと改変したうえでの判断となっている点で成功しない議論なのではないか?」という文で言いたかったことである。




  補  遺


  「正規ルートで購入したダウンロード版ソフトウェアは1回のみなら販売してもよかろう論」


  以下は、私がもっとも気に入っている18禁ゲーム『殻の少女』をYahooオークションに出品したところ、12時間以内に30もの違反申告がなされたことを受けて即座に思いついた反論である。
◆この出品物について、「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとの報告をした者がいる。
◆しかし私は、この出品物を金銭を支払って正規ルートで購入した。
◆仮に、この出品物が「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとするならば、同じく金銭を支払って正規ルートで購入したパッケージ版もまた「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」に当たると判断せねばなるまい。
◆しかしながら、現状ではそのようには判断されていない。
◆したがって、現状ではこの出品物は「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」ではない。

(以上、背理法による論証)
◆さて、ダウンロード版は何度も販売することができる点でパッケージ版とは異なるのだという指摘もあろう。
◆言い換えるならば、この出品はパッケージ版のファイルをコピーして販売しているのと同型であるということである。
◆たしかに原理的にはそのとおりであるが、個別の事例で考えた場合にはその限りではない。
◆具体的には、製品版の販売と同様に、販売回数を1回に限定すればよいのである。
◆これに対しては、たとえば複数IDを持っていたり、Yahooから排除されるたびにIDを取り直したりするなどした場合には、Yahooですら何回販売しているかを把握できないとの反論があるかもしれない。
◆これにも異論はない。
◆しかしながら、ただそれだけの理由で排除が行われるならば、パッケージ版についても、たとえば他者から窃盗したものである可能性がある、あるいは精巧な複製品の可能性があるなどとして排除されねばなるまい。
◆そうした可能性があるにもかかわらず製品版の出品は排除されていないというのが実情である。
◆それゆえ私は、ダウンロード版の販売についても、製品版の販売と同様に、出品者を信用するというのが整合的な立場であると考える。

(むろん、これは現状において整合性を保持する場合の帰結であって、パッケージ版を中古として払い下げること自体が行ってはならないことであるという可能性はある。)
  上では、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」と同型であるとしたが、実は厳密に言えばこの見方は誤っている。
  ダウンロード版とパッケージ版のいずれもが正規ルートで購入されているということを前提するならば、「正規ルートで購入したダウンロード版」と「正規ルートで購入したパッケージ版」の身分が同値となる。ところで、パッケージ版のコピーを販売した場合には、そのコピーの購入者が購入したコピー品を他者に販売することは禁じられている。また、そもそもパッケージ版のファイルを含むすべてを複製して販売することも禁じられている。他方、パッケージ版のコピーを自らが保有しておき、購入したパッケージ版それ自体を他者に販売するという行為は、すでに見たように一般に広く行われており、現時点では容認されている。したがって、パッケージ版がオリジナルであるかどうかは、そのソフトウェアのファイル群ではなく、ファイル群以外のパッケージ部分(外箱、内箱、ケース、記録メディア、マニュアル等々の総体)において判断されていると考えられる。
  ここで、ダウンロード版の特殊性が浮かび上がってくる。上でパッケージ版について検討したとおり、少なくとも「商品としての」ソフトウェア・ファイル群自体にはオリジナルがない。ということは、ファイル群のみの取引となるダウンロード版には、一見したところ商品としてのオリジナルは存在しないことになるのである。しかしながら、これでは1人の者が1度その商品を購入しさえすれば、彼が物理的に可能な範囲で無制限に配布できることになってしまう。したがって、パッケージ版に課せられている制限との間で整合性を維持することができない。
  そこで、購入したパッケージ版を売却する際に制限として設けられていたことを思い出す必要がある。パッケージ版は、購入したパッケージ版それ自体を販売する限りにおいて売却が認められていたのであった。すなわち、パッケージ版においては1回のみの販売が許容されているのである。これをダウンロード版にも適用したとき、ダウンロード版は、それを手にした者がそれぞれ1回販売するか、2回以上販売するかによって、パッケージ版と同値であるか、パッケージ版のコピーと同値であるかに分岐するという結論が得られる。
  それゆえ、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」という事態は次の2つに区分されることになる。「正規ルートで購入したダウンロード版を1回のみ販売すること」と「正規ルートで購入したダウンロード版を2回以上販売すること」である。そして、後者の場合には「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」と同値になるが、前者の場合には同値でないと言うことができるのである。
  なお、ダウンロード版は価格が相対的に低いが、これは再販売が禁止されている代償であると言うよりは、単にパッケージ版に特有の費用(製造に係る費用と流通に係る費用の両方)を抑えられるからであり、したがってダウンロード版の再販売禁止の根拠としては使えないと思う。
【要約版】


◇パッケージ版のファイルをコピーしたものの販売やパッケージ版全体(ファイルのみならず、外箱、内箱、ケース、記録メディア、マニュアル等々を含む総体)の複製品の販売を禁じているのは、ファイルに権利があると見なしているからであると思う。
◇つまり、本来のオリジナル性はファイルに帰属することになる。
◇しかし、製造会社が生産し、流通経路に乗せたパッケージ版それ自体の販売の連鎖はどこまでも容認されている。
◇このことから、私は「商品としては」ファイル以外の部分がオリジナルに当たると述べた。
◇ファイル以外の部分を「商品としての」オリジナル(識別符号)と見なすことによって、ファイル制作者の権利を侵害する行為からファイルを保護しているのである。
◇こうして、ダウンロード版販売禁止論者は、識別符号であるファイル以外を持たないために(1回の購入によって何度でも再販売することが可能となる)ダウンロード版の販売は禁じられるべきなのであると考えていることが分かる。
◇しかし、これが問題なのは、正規ルートで金銭を支払って入手したという点では同じであるにもかかわらず、パッケージ版には冒頭に挙げた制限付きでの販売を認め、ダウンロード版には問答無用で販売を認めないという立場が整合的でないからにほかならない。
◇しかも、販売は認められないと言いながら、製造業者から小売業者への販売は行われているのである。
◇正規ルートで金銭を代償にして購入した商品の販売が認められないならば、小売業者が消費者に販売することもまた禁じられ、したがって製造業者が消費者に直接販売せねばなるまい。
◇また、パッケージ版でも1回の購入によって、あるいは購入すらせずに何度でも再販売することが可能である。
◇たとえば、本物と見紛うほどの複製品を許可なく製造する、他者から窃盗するなどの事態を想定せよ。
◇以上より、パッケージ版とダウンロード版との間の取り扱いに整合性を持たせるために、「正規ルートで購入したダウンロード版であるならば、1回のみの販売が容認されるべきである」ということが帰結する。

更新日 2009年3月21日
作成日 2007年3月--日



関連項目

A 懐疑論とその限界