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特定の虚構作品群の擁護
  (1) 標準的使用に訴えるやり方


  すべての包丁は人を殺す手段として開発されたものではなく、また実際に人を殺すことが標準的使用法ではない。これと同様に、アニメやコンピューター・ゲームなども人に物理的危害を加える手段として開発されたものではないので、アニメやコンピューター・ゲームを参照して人に物理的危害を加えたとしても、それはただ個人的な、あるいは少なくともアニメやコンピューター・ゲームとはあまり関係のない問題であると言うことができる。


  (2) 限定効果説に訴えるやり方


  マス・コミュニケーション論の分野では強力効果説に対抗して、限定効果説というものが提唱された。限定効果説によれば、ある媒体の影響は他の要因と絡み合わなければ表出することはない。実際、アニメやコンピューター・ゲームに接触した者のすべてが他者に危害を加えているということはなく、むしろその反対により近い状況であると思う。(仮に、アニメやコンピューター・ゲームに接触した者のより多くが他者に危害を加えているということが判明したとしても、そのことのみによってアニメやコンピューター・ゲームこそが原因なのだ、ということは言えない。)


  (3) 統計データを懐疑するやり方


  統計学は統計学の専門家でもない限りきわめて誤謬に陥りやすい難解な学問なので、たとえ各分野で権威のある団体であっても、それらが提出している統計データにはすべからく眉に唾をしてかかるべきである。素人が注意を払うべき要点の詳細については、『統計はこうしてウソをつく−だまされないための統計学入門−』、『統計でウソをつく法−数式を使わない統計学入門−』、『統計数字を疑う−なぜ実感とズレるのか?−』、『調査データにだまされない法−ウソと真実をどう見抜くか 基本から上達へ−』、『データの罠−世論はこうしてつくられる−』、『「社会調査」のウソ−リサーチ・リテラシーのすすめ−』、『「あたりまえ」を疑う社会学−質的調査のセンス−』、『社会調査を学ぶ人のために』、『まちがいだらけのサーベイ調査−経済・社会・経営・マーケティング調査のノウハウ−』などの書籍に委ねるとして、ここでは次の2点を指摘するに止める。
  第1に、一般に、「少年による凶悪犯罪は大幅に増加している」という独断に基づく、コンピューター・ゲームおよびそれと親和性の大きい者に対して行われるを攻撃については、「コンピューター・ゲーム登場以前のほうが少年による凶悪犯罪は多かった」という、一般に公開されている統計データを用いた反論がなされる。ここで、先の独断を行った者たち、言い換えれば自らの感覚を信奉の対象としている統計データと魔術的な仕方で同一視する者たちのうち、比較的頭の悪くない者ならば、その統計データがすべての(凶悪)犯罪を母集団としたものとなっていない、すなわち当該データを公開した人びとが把握し得ていない犯罪も存在する可能性は十分にあるという実在論的犯罪観に気づき、最初にとっていた姿勢をあっさりと翻すであろう。しかし、この点こそがまさに統計データを懐疑するのが適当であるという根拠の1つとなっている。統計解析という過程の部分が正しく処理されていたとしても、その前提となるデータ収集の段階において誤る可能性を拭い去ることができないということである。(なお、「少年による凶悪犯罪は大幅に増加している」という言明における独断は、大人による凶悪犯罪よりも少年による凶悪犯罪のほうが多くなっているというものと、そのようになってしまったのはアニメやコンピューター・ゲームが原因であるというものの2つである。)
  第2に、第1の補足事項で挙げたような実在論的犯罪観が果たして正しいのかという問題がある。これをより推し進めるならば、そもそもわれわれが犯罪であるとしている対象が生じているという認識は正しいのか(認識論)、われわれが犯罪という名称を付している何かは本当に存在しているのか(存在論)といった問題に辿り着くことになる。
  また、特定の虚構作品群と犯罪とを結びつけるやり方と似たものに、特定の虚構作品群とコミュニケーション能力なるものを結びつけるやり方も流行している。それによれば、特定の虚構作品群をしているとコミュニケーション能力が低くなるということである。(これとは反対に、コミュニケーション能力が低いので特定の虚構作品を耽溺するようになるという意見もある。)しかしながら、件の論者は(自身の感覚や感情に基づくたわ言を述べ立てるだけで)そのことを論証しようとしないのみならず、(コミュニケーション能力や悪の定義を放置したうえで)コミュニケーション能力が低いことは悪であるという独断的前提を採用している点で不用意な議論を展開してしまっていると言うことができる。


  (4) 性質と概念の混同を批判するやり方


  アニメやコンピューター・ゲームなどで提示される人は絵やその他のデータに過ぎないにもかかわらず、そうしたものを選好するという異常性を持ち合わせているから犯罪を行ってしまうのであるという種類の言説がある。しかしながら、この言説は成功しない。なぜならば、絵はたしかに物理的性質の寄せ集めに過ぎないが、それは写真に写し撮られた人物に対しても適用することができ、したがって写真に映った人物を愛するのが不自然でないならば、絵の人物(それがたとえ現実世界の対象でないとしても)を愛することもまた不自然なことではないということになるからにほかならない。写真を持ち出したのは議論を分かりやすくするためであって、写真という部分を眼前に立つ人というふうに置き換えても支障はない。いずれの場合も視点次第で、一般には単なる物理的性質であると考えることもでき、物理的性質と指摘しただけでは汲み取れない何かがあると考えるのが自然である。


  (5) 虚構作品選定の恣意性を暴露するやり方


  (a)歴史・噂・思い込み、(b)工芸作品・美術作品・芸術音楽・文学小説、(c)映画・大衆音楽・テレビ・ドラマといったものもまたそれぞれ種類は異なるが虚構(作品)である以上、そこから(d)人形・アニメ・キャラクター小説・コンピューターゲーム・漫画を殊更に分かつのは、単なる私的な感覚や感情の発露にほかならない。


  (6) 二重基準を批判するやり方


  (4)で挙げたように普段は虚構作品、ひいては虚構世界や虚構世界内存在を軽視しておきながら、自らにとって都合のよいときだけそれら(の影響)を重視するのは二重基準である。二重基準を採用することが正しいならば、たとえば殺人も正しくなり得る。殺人その他一般に忌避されていることが誤っているならば、二重基準を採用することも誤っていると言うことができる。


  (7) 指示し損ねていることを指摘するやり方


  「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」においては、保護対象を児童と定め、児童の規約的定義を「この法律において「児童」とは、十八歳に満たない者をいう。」としている。また、自民党と民主党のいずれの改正法案においても、この部分を更改していないので、いかなる虚構作品の取り締まりも原理的にできないことが分かる。
  というのは、可能世界あるいは虚構世界における小学生が18歳未満であるとは限らないし、可能世界あるいは虚構世界における年齢(たとえば6歳)がこの世界の年齢と同値であるとは限らないためである。(したがって、虚構作品の制作者は描く対象すべてを「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係ありません」と同様の仕方で「この作品の登場人物はすべて18歳以上であります」と明示しておくという戦略的行為のみによって、児童ポルノ法を原理的に回避し得るのである。)

更新日 2008年7月25日
作成日 2007年10月20日



関連項目

A 懐疑論とその限界
A 論理の重要性についての1節
A 理由と原因と責任の混同
B 誤った比較の仕方
B オタク概念の整備 要約版
C 楽な方へ