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楽な方へ
  楽な選択をすることを非難する者は多い。
  しかし、人は常に楽な方へ進むという可能性がある。(以下はその例である。)


  ◆死ぬか死なないかという選択の結果、死ぬにしても死なないにしても、どちらもそのほうがより楽だからそうするだけであるかもしれないし、


  ◆処世術を駆使するのも、できるだけ使わないようにするのも、そのほうが楽だからそうするだけであるかもしれないし、


  ◆共同上の主観に対して無批判であることも、そこで採用されている独断を批判することも、ともにそのほうが楽だからそうするだけであるかもしれないし、


  ◆働くのは、働かないことによって得られる、飢えや他者からの攻撃を恐れる、あるいは働かないことは非道徳的であるという先入見を持っているがゆえに、働くほうが楽だと思うからそうしているだけかもしれないし、


  ◆労働をファッション化、ステータス化するのは、労働による苦痛や、労働しないことによって得られる苦痛を考慮した結果として半強制的に労働させられているという思いを持つに至り、その思いを源泉とする苦痛を取り除こうとしているだけであるかもしれないし、


  ◆その社会の多数派によって苦労ならびに/あるいは苦痛と見なされている何かを常に選択する者は、そうするほうが楽とされている方向に行くよりは苦しくないと感じている、したがって多数派の価値観における苦痛のほうが楽であるからかもしれない。


  これに対しては、たとえそうであったとしてもそのような性質を絶えず戒めることが重要なのであるとの反論もあろうが、上記の考え方を適用すればその反論を行うこと、あるいは行わないこともまた楽な方へ進んだ結果であると言うことができる。
  他方、この考え方の難点は、すべての行為は行為者の思うままであるという独断的前提によって支えられているところである。

更新日 ----年--月--日
作成日 2007年1月4日



関連項目

A 懐疑論とその限界