SPL: 懐疑論思想チップセットのベンチマーク・テスト | |
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【2009年3月25日】 5分前行動仮説 |
トップページの格言を書いているときに気づいたが、いわゆる「5分前行動仮説」には致命的な欠陥がある。これは、論理学者や分析哲学者ならば誰もが気づけるだろうことだが、たとえば始業開始5分前には仕事に着手できる状態にしておけというとき、始業開始5分前の5分前には仕事に着手できる状態にするための何かをしておかねばならず、さらにその5分前には仕事に着手できる状態にするための何かをするための何かをしておかねばならない……となり、無限後退/無限遡行/無限背進に陥ってしまうのである。 したがって、5分前行動なるものは少なくとも「この世界」では不可能であろう。なぜなら、この世界では1日は24時間なのだから!(「!」の代わりに、無限後退に耐えられるはずがない、と続けてもよい。) このような欠陥思想をたとえ一時でも「死ねるときに死ぬ」思想と関連づけてしまうとは、私もまだまだである。(しかし、すぐに気づけてよかった。) mixi版 私はある格言を思いついたのだが、その際にその格言と密接に関係している思想として「5分前行動仮説」を挙げた。 この仮説は、何ごとも5分前に行動することが重要であるという、男版スイーツ(笑)とでも言うべき人生訓で、自己啓発系のアホ、バカの類が好んでいる考えである。 実は、この思想には致命的な欠陥があるのだということに、先の格言と関連づけた5分後ぐらいに思い至った。(論理学者や分析哲学者ならば、この仮説を聞いた直後に誤謬に気づくであろう。) たとえば始業開始5分前には仕事に着手できる状態にしておけという事例を想定してもらいたい。この事例に5分前行動仮説を適用すれば、始業開始5分前の5分前には仕事に着手できる状態にするための何かをしておかねばならず、さらにその5分前には仕事に着手できる状態にするための何かをするための何かをしておかねばならない……となり、無限後退/無限遡行/無限背進に陥ってしまうのである。したがって、5分前行動なるものは少なくとも「この世界」では不可能であるということが帰結する。なぜなら、この世界では1日は24時間なのだから!(「!」の代わりに、無限後退に耐えられるはずがない、と続けてもよい。) |
【2009年3月22日】 児童ポルノ法支持者は様相論理ができないために虚構世界の美少女を信奉する者たちに原理的に敗北する。 |
「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」においては、保護対象を児童と定め、児童の規約的定義を「この法律において「児童」とは、十八歳に満たない者をいう。」としている。また、自民党と民主党のいずれの改正法案においても、この部分を更改していないので、いかなる虚構作品の取り締まりも原理的にできないことが分かる。 というのは、可能世界あるいは虚構世界における小学生が18歳未満であるとは限らないし、可能世界あるいは虚構世界における年齢(たとえば6歳)がこの世界の年齢と同値であるとは限らないためである。(したがって、虚構作品の制作者は描く対象すべてを「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係ありません」と同様の仕方で「この作品の登場人物はすべて18歳以上であります」と明示しておくという戦略的行為のみによって、児童ポルノ法を原理的に回避し得るのである。) 様相論理やって出直して来いボケ。 |
【2009年3月21日】 いわゆるフェミニストの誤謬 |
フェミニストの主張の1つに「男が女に暴力を向けてはならない」という規範がある。これが誤謬であるのは以下のとおりである。 (1) 「男が女に暴力を向けてはならない」という規範は男尊女卑主義の下で正当化される考えである。 (2) 「男が女に暴力を向けてはならない」という規範は女の特権を主張する言明である。 (3) したがって、性差廃絶主義/男女平等主義下で「男が女に暴力を向けてはならない」という規範を唱えるという行為は、一方で男尊女卑主義的な女の特権を維持しつつ、他方で男女間で平等を強いることであるため、結果として女尊男卑主義の表明となっている。 (4) それゆえ、「性差廃絶主義者による『男が女に暴力を向けてはならない』」という規範的言明は、2重の差別を含むものとなっている。 (5) 以上より、性差廃絶主義者は彼らの批判対象である男尊女卑主義者よりも差別的であるということが帰結する。 (6) 性差廃絶主義者はまた、批判対象と同様に男尊女卑という自己中心的な行為を行っているうえに女尊男卑までも行っているにもかかわらず、批判対象を自己中心的であると批判するという重層的自己中心性を発露しているために、男尊女卑主義者よりも自己中心的であると言うことができる。 |
【2009年3月21日】 条件を無視した比較 |
小沢一郎による検察批判を受けて与謝野馨が「日本の刑事訴訟手続きは世界で一番民主的で透明性が高い」として小沢一郎に反論したようであるということを2ちゃんねるで知ったが、これがマスゴミによる歪曲報道ではなく、本当のことであるとすれば誤謬である。 たとえば、次のような例を用いればそのことがよく分かると思う。ある試験を100人が受け、そのなかの1人がもっとも良い点をとり、その点が10点だったとする。しかし、実はその試験の満点は100点であったのだとしたらどうだろうか。しかも、受験者の国におけるその試験問題の平均点が60点であるとしたらどうだろうか。 つまり、与謝野馨が提示した見解は、条件概念を欠いた比較による優位性言明になっているのである。ここでは、比較対象となる他の国家の刑事訴訟手続きやすべての国家の刑事訴訟手続きがそもそも誤っていないかどうかという検討を行わねばなるまい。 ある者(ここでは小沢一郎)がゴミ虫、クソ虫の類であるからと言って、彼のすべての言明が誤謬であるとは限らないのである! |
【2009年3月14日】 言語にまつわる2つの立場 |
言語について1つの対立が姿を見せている。1つは言語不変派であり、もう1つは言語流転派である。 前者の典型例は、現在の若者が使っている日本語はおかしいという人びとである。しかし、これは、最初に使われていた言語からまったく変化を許容しないという立場であるため、自らが使用する日本語もおかしいと言っていることになる。他方、後者は、そうした人びとを批判し、歴史を見れば言語は移ろってきたのだと主張する。しかしそうすると、あるものをAを言う人が1分後にそれをBと言い、さらに1分が経過したときにはCと言ったとしてもよいという主張も含むようになるため、言語が成立しなくなる。 いずれも隘路であるように思える。これら2つの立場以外の第3の立場があるのだろうか。それとも、それら2つの立場の1つ以上に対する私の解釈が誤っているのだろうか。 |
【2009年3月5日】 「殺人、暴行、強姦は悪である」から「言葉によるいじめは悪である」を導出する。 |
(a) 殺人、暴行、強姦は物理的攻撃である。……公理1 (A) 物理的攻撃は悪である。……仮定 (b) 殺人、暴行、強姦は悪である。……(a)と(A)より (c) 身体は物理的である。……公理2 (d) 精神的なものは身体に還元することができる。……公理3 (e) 言葉によるいじめは精神的なものである。……公理4 (1) 精神的なものは物理的なものに還元することができる。……(c)と(d)より (2) 言葉によるいじめは物理的攻撃である。……(e)と(1)より (3) 言葉によるいじめは悪である。……(A)と(2)より ※公理3(還元主義的唯物論)が弱い。 ※しかし、日本人の場合にはほとんどがそうであると思うが、還元主義的唯物論を採用している者は上の結論を支持していることになる。 ※なお、「言葉によるいじめ」は「誹謗」、「中傷」、「罵倒」、「悪口」、「嘲笑」などに置き換え可能であることは言うまでもない。 |
【2009年2月23日】 女子高生コンクリート詰め殺人事件補論 −在日チョン・左翼・部落民はなぜ原理的敗北を喫するか− |
加害者擁護派(いわゆる頭弱学派:とうじゃくがくは)による被害者非難のうち、彼らが柱としているのが次の2つである。 ◆被害者が逃げなかったのは彼女が性的脈絡における期待をしていたためである。 しかし、これまで彼らがおこがましくも論証として提示した説明は次の文に集約される。(下記以外のものは、「燻製ニシン」や「わら人形論法」等々の、核心と関係のない初歩的な誤謬に満ちているため、取り上げるに値しない。) ●インターネット上で女を自称する人物による「見知らぬ者と性行為をしたが、楽しく、帰りたくないと思ったことから、被害者が帰らなかったことが分かる。」という趣旨の言明から、同じ女の意見は信憑性があるのであり、被害者が帰らなかったのは楽しかったからであるということが帰結する。 この考え方には3つの論点がある。それを論駁とともに示そう。 (a) 「見知らぬ者と性行為をしたが、楽しく、帰りたくないと思ったことから、被害者が帰らなかったことが分かる。」という、ある1人の女の見解を根拠としている。 ⇒演繹法ではなく、帰納法に依拠している。 (b) 「ある女の意見はすべての女の意見を代表する。」という見解を表明している。 ⇒実験すらせずに、ただ1つの事柄を以って全体を語るというのは、帰納法の使い方を誤っている。 (c) 「被害者が帰らなかった」という能動文を用いている。 ⇒被害者の行為を制限するものはただ彼女の心理的根拠のみであるという先入見がある。 また、加害者擁護派による冒頭の言明は次の規範を含み持っている。 ◆被害者が性的脈絡における期待をしていたならば、彼女を強姦、暴行、殺害をしてもよい。 実は、誠に残念ながら、この規範についても論証と呼べるような種類のものが提示されていない、稚拙な言明となっている。ここにおける前件によって後件が直接に導かれるならば、たとえば次の規範が正しくなると考えてもよいはずである。 ◇被害者が現実世界から離脱し虚構世界へ行きたいと思っているならば、彼女を殺害してもよい。 この文は、先に挙げた、加害者擁護派による規範的言明と同様に、前件が後件の論理的根拠となり得ていないうえに、ある不思議さも備えている。すなわち、加害者擁護派によれば「ある者が性的脈絡において期待することと、彼を殺すことが繋がっている」のであり、それがいかに頭の弱いものとなっているかを示すための仮説によれば、「ある者を殺害することによって、彼は虚構世界で存在できるようになる」のである。) また、この例が分かりにくいならば、次のように書き換えてもよい。(ただし、下記の文は「被害者が性的脈絡における期待をしていたならば、彼女を強姦、暴行、殺害してもよい」という命題とは異なり、不思議さを消失している。) ◇被害者が死にたいと思っているならば、彼女を殺害してもよい。 この場合、法律の正しさを前提しないならば議論が巻き起こるであろうが、いずれにせよ(すぐ上の文にせよ、被害者擁護派の規範にせよ)、法律を前提するならば即誤謬となり、法律を前提しないならば認識論と存在論についての最終回答が提出されない限り正しく「なり得ない」のである。 また、逮捕されなかった者や書類送検されなかった者を擁護する際の言明としては、そのまま「逮捕されなかったことや書類送検されなかったことが犯行を行っていないことと悪でないことの根拠である」としている。しかしながら、これについても前件から後件を推論することはできない。単に証拠不十分(証拠が揃わなかっただけ)や政治的な駆け引き(在日チョンの組織的妨害)という経緯があるだけかもしれないし、悪であるかどうかは法のみを基準にするのが正しいという判断も独断である。 |
【2009年2月22日】 スマイリーキクチ事件要論 |
アホやバカは気づいていないようであるが、現時点では、それどころか仮にスマイリーキクチに有罪判決が下ってなお、下記のいずれの立場にも可能性はある。 ◆スマイリーキクチは女子高生コンクリート詰め殺人事件に直接的あるいは間接的に関わっていたという説 ◇スマイリーキクチは女子高生コンクリート詰め殺人事件に一切関わっていなかったという説 この問題について(実際的に=力関係によってではなく)原理的に決着をつけるには、まず認識論と存在論の2つの領野について最終回答を提出せねばならない。なぜならば、認識論と存在論についての議論を抜きにした議論というのは、類推を用いるならば、基礎工事も1階部分もつくっていない状態で、2階部分をつくり、なおかつ設置しようとしている行為であると言うことができるためである。 裁判員制度問題にも通じることであるが、どの世界了解が正しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しない。これは次のことから導かれる。Aという立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。しかし、これは(無)矛盾律に反する。したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論証なしには成り立たない。(背理法による論証) なお、物的証拠に依拠した議論も、当然のことながらおのおのの認識論と存在論を独断的に前提していることは言うまでもない。たとえば、その物的証拠なるものが実在するのか、あるいはその他の仕方で存在するのか、実在するとしてそれが依拠する技術が絶対確実に正しいか等々といったことである。(ということは、物的証拠があるからとか、物的証拠がないからとかいった理由のみによって、事件と関わっている、いないを判定することはできないということである。) もっとも、この議論では「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されているのではないかという疑問は残される。 という以上のような議論に対して、以下の応答があった。 いくら頭の中で理屈こねたって無駄だよ。しかし、この意見は私の言わんとしていることのうちより重要な部分を汲み取ることができていない。 試しに、上の反論と似た議論を例示し、それに対する反論を行うことにしよう。 ◆ある事件の加害者とされる者を擁護する言明に対して ⇒「おまえが被害者になっても同じことが言えるということだな。さっさと同じ目に遭え。」 ↑前半部分について:彼が同様の状況に陥ったときに同じことが言えないとしても、そのことと彼による加害者擁護言明の真理値に関連性はない。 もしこれに関連性があるならば、たとえば下記2点のような事態が起こり得る。 ・「すべての人間が『1+1=2』であると信じていないことのみから『1+1=2』が誤りであることが帰結する」 ・「すべての人間が『1+1=2』であると信じていることのみから『1+1=2』が正しいことが帰結する」 ↑後半部分について:自らの、あるいは自らが属する共同体に共有されている感覚や感情、およびそこから帰結する規範を盲目的に正しいと信じ、その押しつけを行っている。この種の者は、そうした感覚や感情に合致するか否かで何ごとかを判断するので、自分たちの言うことは必ず正しいという主張を含んでいることになる。したがって、たとえばある事態について酷いという感想を持たない場合には、(ある事件の加害者とされる者を擁護する言明に噛み付いた場合とは違い)それについて酷いという感想を持って不満をぶつける者を否定する。(これは2ちゃんねるでもよく見かける態度である。) ◆ある事件の加害者とされる者に対する量刑に不服がある場合 ⇒「裁判官は遺族感情を無視している。」 ↑繰り返しになるが、感覚や感情によってあることが正しくなるならば、その感覚や感情と相容れない感覚や感情に依拠した立場も正しくなるはずである。しかし、こうした事態は(無)矛盾律に反するために成立しない。 また、 直接的被害者の被った害を受けて苦しむ(すなわち間接的に苦しむ)という行為に対しては、当該行為者の主観によってその苦痛は消滅もしくは軽減されるという考え方とシステムによって決定されているのであるから間接的に苦痛を感じる行為者の自由というわけではないという考え方の2つが想定されるであろう。しかしながら、いずれを採用したとしても、その仮説に基づく世界了解においては、間接的被害者の立場に立脚したと一般に判断されるような見解は誤っていると言える。なぜならば、前者の考え方によれば、犯人が加害者であるがゆえに攻撃を受け、したがって被害者に転じるという、犯人の自己認識が退けられる代わりに、第三者が間接的被害者と判断する何者かもまた被害者足りえず、後者の考え方によれば、間接的被害者なるものが実際に被害者であることがシステム的に決定されているのと同様に、自らが加害者であるとともに被害者であると判断している犯人の主張もまたシステム(により決定されているという仮説)により正しくなるからである。それゆえ、「遺族感情を裁判に持ち込まねばならない」といったような言明は誤っていると帰結することができるであろう。 |
【2009年2月19日】 オタクとは何か。 |
ある定義:オタクやオタク文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う人がオタク。 この論法をより形式化すると次のようになる。 ○Aが謂れのない迫害にあっているときに腹立たしいと思うすべての者はAである。 ○Aでないならば、Aが謂れのない迫害にあっているときに腹立たしいと思わない。 したがって、この論法が正しいならば以下のことが導かれる。 ◇黒人や黒人文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う人が黒人。 これを白人に適用したのが下記である。 ◆黒人や黒人文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う白人は黒人である。 !? 「黒人」と「白人」という部分にはほかの語と入れ替えてもよい。非常に滑稽な命題が量産されるであろう。 ただし、冒頭の定義が依拠している形式は、オタクのように、曖昧で、明確に規定されていない対象に限定されるものであるという可能性はある。(白人や黒人は、呼称自体は便宜上のものであるが、おそらく背後から生物学によって支えられている。) 追 記 本文についてOtabaにも投稿したところ、以下の反論があったので掲載し、再反論する。 はじめまして、コメントさせていただきます。長文でもうしわけありません。 この反論の論点は2つである。以下に再反論とともに示す。 (1) 私が示した論理形式は、私が取り上げた定義の論理形式と異なる。 ⇒私が想定していた状況は、他者の言明は彼が採用している誤った前提や世界了解に基づいて行われているのだと判断したときに、自らがその言明の対象(ここではオタク)となるという認識(自らの主観を通した他者の主観)を持つに至り、その結果として腹立たしく思うというものである。また、「黒人が迫害されているときに、『ああ、これはなんだか自分が言われているような気がするぞ』と思う白人は居ない」というのは独断である。(論理の話をしているのであるから、反論者の実感やそれに基づく結論など知ったことではない。) (2) 私が示した論理形式の適用の仕方は誤っている。 ⇒具体的には、「黒人や黒人文化が謂れのない迫害にあっている時、自分の事として腹立たしいと思う白人は黒人である。」の白人の部分が誤っているとのことであるが、「この人が生物学的に自分のことを誤解していなければ、論理的な穴はありません。(多分)」と自ら補足しているとおり、独断による反論となっている。また、「この人が生物学的に自分のことを誤解していなければ」という部分自体も、生物学が絶対確実に正しいと論証できない限り独断である。なお、私が「黒人」、「白人」という語を持ち出したのは私の主観(この主観には、私の主観を通した他者の主観を含む)による分類に基づくことを付記しておく。 |
【2009年2月9日】 分析哲学の威力 |
ニュース速報+板で宣伝活動をしているときに関連スレとして表示されていた「銭ゲバ」というテレビ番組についてのスレッド・タイトルを見て即座に反論を思いついた。 反論とは、スレッド・タイトルのなかにあった「金だけ信じる」という文言に対してのものである。 その骨子は次のとおりである。 【前提】「金」の読み方は、「きん」ではなく「かね」であるものとする。 「金を信じている」という言明の背後には「貨幣制度を信じている」という前提がある。 そして、「貨幣制度を信じている」ならば、「その貨幣制度を同調的な仕方で成立させている(※)人類社会を信じている」ことになる。(※※) それゆえ、この世界においては「金だけを信じている」という事態は成立しない。 ※社会システム論を考慮するならば、この表現は十全とは言えない。 ※※なぜなら、貨幣制度は人類社会があることを前提しているから。(むろん、人類社会以外の何かであっても貨幣制度を確立することができるかもしれない。その場合には、人類社会をその何かに置換すればよい。要するに、貨幣制度は他のすべてと独立して成立しているのではないということが重要なのである。) |
【2009年2月3日】 蒙昧主義・空語主義 |
「誰も知らない泣ける歌」というテレビ番組があるようだが、「誰も知らない」にもかかわらず紹介することができるというのはいったいどういうことであろうか。そもそも、「その歌を誰も知らない」ということはその歌をつくった者もその歌を知らないということになる。これが成立するという事態は矛盾に当たる。しかし、矛盾が成立することはない。それゆえ、「誰も知らない泣ける歌」は存在しない。 これが、蒙昧主義かつ空語主義たる相対主義が蔓延したことに起因する悪弊である。いい加減なことを言っていると殺すぞ。 ただし上では、「知る」、「知らない」という語がいったい何であるかを措定したうえでの議論であるため、それら語が厳密には何であるかの議論がまず必要である。 |
【2009年1月17日】 二重基準と変化 |
麻生太郎が首相になる前は彼を賞賛し、首相になってからは彼を批判するといった行為を矛盾であると指摘している、複数のバカを発見した。おそらく、このバカは実務をしたことがないか、実務経験があるとしても実務家として成立していない類の者である。実務家は、ある立場が誤りであったという認識に至れば立場を変えること、すなわち変化することの重要性を知っているものである。さらにこれが、ある立場を採用していながら、同時にそれとは相容れない別の立場を主張する、いわゆる二重基準とは異なるということも知っている。(なお、これらのことは実務家でなくとも、頭が弱くさえなければ気づけることである。) |
【2009年1月17日】 蒙昧と空語 |
協調性とはいったい何なのかね。たとえば、日常生活では一般的な特性を持ち合わせているが、自らに与えられた仕事をやろうとしない者、ある者をプライベートにおいて嫌いであるという理由でその者と仕事をやろうとしない者に協調性があると言えるのかね。結局、多数派が自らの感覚と一致するかどうかで選定しているだけではないのかね。 |
【2009年1月17日】 日常言語に潜む陥穽 |
『機動戦士ガンダムSEED』のときにはルナマリア・ホークの魅力に打ち勝ったために視聴せずに済んだ私であるが、マリナ・イスマイールの魅力の前についに敗北を喫してしまい、『機動戦士ガンダム00』をDMMのストリーム配信で見始めた。第1話で、武力による戦争根絶を謳った私設武装組織ソレスタルビーイングに対して、アメリカ合衆国を中心とするユニオンの筆頭パイロットが矛盾しているとの見解を示したが、論理学者タルスキの言語階層説によれば矛盾ではなくなるので、単純な問題というわけでもないのだと思う。 しかし私は、アメリカ合衆国の毛唐のごときスカした勘違いバカであるところのソレスタルビーイングの肩を持っているのでは決してなく、単に論理学的な指摘を行ったまでである。さらにここでは、ソレスタルビーイング以外の勢力がソレスタルビーイングと同様の見解を公表したとしても問題はないということに注意が必要である。要するに、ジェンガ・ゲームのごとき様相を呈してくる、言い換えるならば少なくとも『機動戦士ガンダム00』の世界においては、正しいことを言っているのが誰かという原理的な問題というよりは、むしろ誰が最後まで飽きずに同じような主張を繰り返すか、あるいは誰が他のすべて勢力を殲滅するかという実施上の問題がある。(『機動戦士ガンダム00』を制作している連中がバカだから原理面に意識が向かうことすらないというのが実情であるが、そうであるならばわれわれはただマリナ・イスマイールに欲情するのみである。あるいは、作品上では暗示すらされていないであろう、絹江・クロスロードと沙慈・クロスロードという実の姉弟の性的関係を妄想するという道もある。) ところで、また考えなしのアホに出会った。 232 :名無しさん(新規):2009/01/17(土) 07:03:56 ID:fkp0I9pM0>>232の言明に含まれる>>232の見解は以下のとおりである。 (1) 「AはB以下である」 (2) (1)を別の表現で記述すれば、「A≦B」となる。 (3) (2)を分解すれば、「A=BまたはA<B」となる。 (4) Bにミジンコを代入すれば、「A=ミジンコまたはA<ミジンコ」となる。 ここで、「A=B」の場合を考える。 (5) 「A=ミジンコ」とは同一性言明である。 (6) 同一性とは関係性ではない。 (7) (4)の式でAに人間を代入すれば、「人間=ミジンコ」となる。 規約主義に則るとしても、人間とミジンコを同一であると考える仕方にどのような利便性があるのであろうか? なお、「A<B」(ここでは「人間<ミジンコ」)の場合をどのように捉えればよいかは私には分からない。 追 記 238 :名無しさん(新規):2009/01/17(土) 07:48:53 ID:fkp0I9pM0どうやら、このアホは原価計算論を知らないようである。(日商簿記1級までやれば確実に気づくと思われるが、純利益は素人が簡単に算定し得る類のものではない。) |
【2009年1月15日】 裁判員制度、再び。 |
裁判員制度については2008年11月10日の記録でも触れてある。そこでは、偶然あるいは必然に接触した、裁判員制度に対するある匿名者の意気込みを取り上げ、その意気込みに含まれる命題が偽であると論じる、さらにはそれに対して自己論駁するといったことを行った。 しかし、ここでは私の立場を明確にしておくことにしよう。(取らぬ狸の皮算用的結末が待ち受けている可能性は十分にあるが、記録しておきたいのである。) これは昔のウェブサイトでも書いたことがあるが、ある者が正しさを追究する者であるならば、少なくとも彼の理性の段階においては誤ったことを全否定せねばならない。(ただし感覚や感情の露呈を含まない。)そうでないならば、その者は正しさを追究していないことになる。彼の自己認識が誤っているか、彼が意図的な嘘つきであるかのいずれかであるということである。ところで、裁判においては善とか悪とか正義とか、あるできごとが事実であるとか事実でないとかいったことが言われるが、これらはすべて発言者の世界了解を独断的に前提している。したがって、おのおのの世界了解が誤っていた場合には、彼らの言明がことごとく誤謬であるという可能性も十分にあるのである。(すべてが誤謬でない可能性もあるので、このような表現を用いた。)そうであるならば、真理の探求においてはまず世界が実際にはどのようであるかといった基礎的なことについて議論がなされねばなるまい。類推を用いるならば、家を建築するにあたってはまず基礎工事を行うが、これが先ほどのより基礎的なことから決定される必要があるということに該当する。基礎工事を行わずに上階層をつくるといういわば空中工法が(論理的にはともかくとして)物理的に不可能であるのと同様に、下位の議論なき上位の議論は空虚を産出するのみである。 問題は、何が正しいか議論しているとの自己認識を持っている者の多くが、こうしたことに気づかず、あるいはこの私がわざわざ忠告してやっても聞く耳を持たず、勘違いし続けたままの状態であるということである。おそらく裁判に出席する裁判員のほとんどはこうしたバカで構成されていると思われるが、私は先述した立場を固守し、空疎な議論しか行わぬ者を断固として撥ねつけるつもりである。すなわち、判断留保の姿勢(有罪か無罪かを決定しない姿勢)を貫くということである。(たとえば、罪なるものがいったいいかなること、あるいはいかなるものであるか不明なため。) ということは、私が被告になった際も同様の立場に立脚して言明する用意があるということである。実際、私の記憶が絶対確実に正しいとなぜ言えるのかね? 追 記 ただし、もっとも基礎の部分が確定しなければならないという考え方は実は行き詰っている。「懐疑論とその限界」の草稿に目を通してもらえれば分かると思うが、循環してしまうのである。要するに、独断について無頓着であるという広く一般に行き渡っていると思われる態度で臨もうと、ただ1つの独断も生かしてはおかないという態度で臨もうと、独断には敵わないというのが、私が得た暫定的結論である。ここで、独断を行うことが正しさの探求になるのであると考えた場合には、互いに対立する独断が出現したとき(たとえばイスラエル対パレスチナ)に隘路であることが明晰に判明する。したがって、結局は判断留保せざるを得ない。 いずれにせよ、これは何が正しいかを究明する際に採用しなければ矛盾するという態度であって、正しいかどうかはどうでもよく、自らの感覚と感情にのみ基づいて決定するという行動指針の基に行為するならば実践上の矛盾は解消される。(むろん、理論においてはそうした態度すらも審問にかけられるのであるが。)そういうわけで、私は、在日チョン、部落民、暴力団、さらにはそれに類するDQN、その他私が嫌悪する対象に含まれるだろうと直感した輩の裁判においては冤罪を考慮せずに、一刀両断で有罪票を投じる予定である。そもそもあれらは生きているだけで罪なのだから、冤罪概念は成立しない。これについては、この私が大嫌いだからそうなるのだということにでもしておこう。要するに、相手によって理性を前面に出すか、感覚や感情を前面に出すかを変えるというわけである。ふん!(感覚や感情が前面に出ている場合でも、後ろには理性が控えており、その理性の段階ではやはり判断留保が選択されるのであるから、おそらく問題はなかろう。ただ、その場面では理性による判断留保を抑制し、感覚や感情による判断を重用するというだけのことである。私は、正しさを言い立てておきながら、その場で同時に感覚や感情による判断を行う矛盾野郎とは違うのである。私が披露しようとしているのは、その種のアホには使いこなせない高等技術なのである。) |
【2009年1月14日】 愚者群に対する超長距離砲撃 |
麻生太郎による連続漢字読み間違い事件についてのSopilotez Silly Pitの見解には概ね同意できる。(「一般に定着している漢字の読みを絶対視するのが正しいのか。」、「IMEを過信する権威主義に陥っている。」、「IMEは漢字についての権威ではないので、IMEを持ち出しても根拠にならない。」……ただし、2番目については直接述べてはいない。) そもそも、語についてより重要なことは、まずその語について説明することができるか否かであり、次にその語を使用することができるか否かである。そして、後者について適切に対処することができるということは文脈を読み取ることができるということに繋がるため、(「未曾有」を「みぞうゆう」と言ったり、「踏襲」を「ふしゅう」と言ったりするという)多少の読み違いは見抜けるのである。そうであるならば、会話に支障をきたすこともあるまい。 この種の勘違い野郎は身近にもいる。かつてのテレビゲームやそれに慣れ親しんでいた者(自分自身を含む)を称揚し、現在のそれらを温い、甘えていると貶す者どもである。彼らによれば、現在のテレビゲームは映像や音楽に頼り、物語が単純化しており、また現在のテレビゲーム愛好者はそのようなものでなければ受け入れない傾向が顕著であるが、かつてはハードウェアにまつわる制約も手伝って受け手が大いに思考せねば到底理解できないものばかりで、かつ受け手はそのような状況を積極的に受容していた。しかしこうした認識を持つ者は、件の旧世代が所詮虚構世界論(※)を意識していない、日常レベルの思考や議論に止まっていたのであり、それゆえ分析哲学者やそれに類する者よりもずっと現在のゲーマーに近く、したがって大別するならば自らが卑下している者たちと同類になってしまうというということを看過してしまっている。 愚者が自らよりも劣っていると認識しているがその実同類項として括ることができる対象を見下すというこのような状況には脱力させられるのみである。 ※ 虚構世界論の例示 「意図と指示」 「現実と虚構(作品)を巡る批判と応答」 「コンピューター・ゲームにおける「HP: 0」の再解釈」 追 記 なお、このウェブサイトの題名である「傾国の墓標」は「傾いた国にある墓標」というほどの意味である。根拠を示すことなく現在の日本語には「傾国」に「立ち行かなくなった国」という使用法はないとの指摘を受けたが、仮にこの見解が正しいとしても、一般的な歴史の受容のされ方に基づくならば、過去と現在を比較したときに語にまつわるさまざまな事柄(このなかには語の使用法も含まれる)が変化していることから、未来において「傾国」の使用法の1つに「立ち行かなくなった国」が付け加わる可能性は十分にあると考えるのが自然であろう。そのことを踏まえるならば、「傾国の墓標」は未来を先取りした語であると解釈することができる。 編 集 かつてのテレビゲームやそれに慣れ親しんでいた者(自分自身を含む)を称揚し、現在のそれらを温い、甘えていると貶す者どもがいる。彼らによれば、現在のテレビゲームは映像や音楽に頼り、物語が単純化しており、また現在のテレビゲーム愛好者はそのようなものでなければ受け入れない傾向が顕著であるが、かつてはハードウェアにまつわる制約も手伝って受け手が大いに思考せねば到底理解できないものばかりで、かつ受け手はそのような状況を積極的に受容していた。 しかしこうした認識を持つ者は、件の旧世代の行う議論が所詮虚構世界論を意識していない、日常レベルの思考や議論に止まっていたのであり、それゆえ分析哲学者やそれに類する者よりもずっと現在のゲーマーに近く、したがって大別するならば自らが卑下している者たちと同類になってしまうというということを看過してしまっている。 愚者が自らよりも劣っていると認識しているがその実同類項として括ることができる対象を見下すというこのような状況には脱力させられるのみである。 さて、虚構世界論の重要性を認識していないという点において、上で愚者の例として挙げた者どもと似通っているのが、同じく虚構作品について日常レベルの議論は行うが、虚構世界論を嘲笑するバカどもである。 こうしたアホがアホであるのは、この世界における日常的なレベルの諸言明(たとえば、ある行為に対してある法が適用されるために当該行為は罪であるとする言明)がそうであるように、虚構世界についての諸議論もまた彼らが持つ世界了解に基づいており、したがってその世界了解の真偽によって議論に含まれる仮説や理論の成立可否が左右されるということに無頓着であるからにほかならない。類推を用いるならば、基礎工事を行わずして建築物をつくることはできないということになる。 より具体的には次のとおりである。たとえば魔法なるものが描かれる場合があるが、このとき一般には魔法の存在が盲目的に前提される。しかしながら、これはこの世界についても言えるが、何かが成立しているという前提で話を進めたとしても、実際にはそれが独断であるということも十分に考えられる。そして、それが独断であった場合には、自らがいったい何を言っていたのか本人たちでさえ分からないということになる。 ここで滑稽なことは、議論をしている彼らは対象が何であるか分かっているつもりになっているだけで、実際には分かっていないということを分かっていない、あるいは何を言っているのか分かっていないということを分かっていないということである。虚構世界論に対する意識は、そのような愚者が陥る状況を打開する原動力となる。われわれにとっては、まず何よりも土台の部分を固めることが重要なのである。 なお、虚構世界論と言っても、蒙昧主義かつ空語主義であるところの相対主義やそれに類する立場からの、副島隆彦の言を借りるならば「わけの分からない気取り」のそれは不要である。それではいかなる虚構世界論が必要なのか。それは論理分析哲学による虚構世界論である。 この種の虚構世界論の聖典こそが『虚構世界の存在論』である。 |
【2009年1月6日】 泰葉やろう |
泰葉(読み方:やすは)という名もさることながら、在日チョンのような顔立ちであることから、私は彼女をとてもとても嫌悪している(いわゆる「とてとて」である)が、いくら泰葉がゴミであるからと言って、頭の弱い攻撃は看過しがたいものである。 私が攻撃したいと思っているのは、2ちゃんねるの泰葉スレにおける、次の書き込みにほかならない。 ディスカバリーチャンネルで犯罪者の凶悪度を測るって言う番組があったけど、その中でデジャブ!?かと思われることが。このアホがいかなることを意図していたかはさて措き、上記言明は、苦しんだのは直接的な被害者だけでないという意味を含み持っている。より踏み込むならば、犯人は直接的被害者が被った害を受けて苦しむ者のことを考慮していないという含みを持っているのである。 直接的被害者の被った害を受けて苦しむという行為に対しては、当該行為者の主観によってその苦痛は消滅もしくは軽減されるという考え方とシステムによって決定されているのであるから間接的に苦痛を感じることもまた行為者の自由というわけではないという考え方の2つが想定されるであろう。しかしながら、いずれの考え方を採用したとしても、その仮説に基づく世界了解においては、間接的被害者の立場に立脚したと一般に判断されるような見解は誤っていると言える。なぜならば、前者の考え方によれば、犯人が加害者であるがゆえに攻撃を受け、したがって苦痛を感じたために被害者に転じるという、犯人の自己認識が退けられる代わりに、第三者が間接的被害者と判断する何者かもまた被害者足り得ず、後者の考え方によれば、間接的被害者が間接的な仕方で苦痛を感じるということがシステム的に決定されているのと同様に、自らが加害者であるとともに被害者であると判断している犯人の(社会的私刑により苦痛を感じたので自らこそが被害者であるという)主張もまたシステム(により決定されているという仮説)により正しくなるからである。 それゆえ、引用文を記述した者の考え方は誤っていると帰結することができるであろう。 |
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